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モンベルでは、自然を対象に、あるいは自然を舞台として、人々に希望や勇気を与え、社会に対して前向きなメッセージを伝える活動を応援する目的で、2005年に「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設しました。独創的なチャレンジに対し、計画段階からのサポートを行います。失敗を恐れずに挑戦し続ける姿勢を応援します。
第12回(2023年)受賞者
グザヴィエ・パッシュ 1980年生まれ、建築技師・写真家
セリーヌ・パッシュ 1982年生まれ、人類学者・登山インストラクター
ナイラ・パッシュ 2013年生まれ
フィビー・パッシュ 2017年生まれ
2010年から自転車で世界中を巡る旅を始めた、スイス人のグザヴィエ&セリーヌ夫妻。旅の途中で生まれたナイラちゃんとフィビーちゃんを連れて、世界中を巡る自転車の旅を続けています。訪れた各国の文化を肌で感じながら、2人の娘はたくましく成長しています。
パッシュファミリーは、これまでに世界4大陸の91,000kmを走破しました。2010年から2015年までは"Swiss Alps to Southern Alps"と題し、生まれ故郷のスイスからニュージーランドまでを自転車で走破。その途中、2013年にマレーシアで長女のナイラちゃんが誕生しました。それ以降は子育てをしながら旅を続け、2017年には次女のフィビーちゃんが誕生しました。2019年に第9回モンベル・チャレンジ・アワードを受賞し、2023年にはジャパンエコトラック公式アンバサダーに就任しました。2023年5月から約半年かけて"Wonder of nature"プロジェクトを始動。日本各地を訪れ、子どもたちに自然体験を提供することで、子どもたちの生きる力を育成し、そのことが地球の未来にとっても重要であることを伝える活動を行っています。2023年、2度目となるモンベル・チャレンジ・アワードを受賞しました。
パッシュ ファミリーからのコメント
この「モンベル・チャレンジ・アワード2023」を、私たちの娘である、ナイラとフィビーに捧げたいと思います。彼女たちの強い決意と勇気がなければ、日本の梅雨や酷暑、さらに数回の台風を乗り越え、プロジェクトを成し遂げることはできなかったでしょう。10歳になったナイラは、全行程を自らの自転車で走破しました。総走行距離は約5,000km、さらに累積獲得標高は31,000mにも及びました。これは、富士山の8倍に相当します。6歳のフィビーは毎日10kmから35kmを自分の自転車で走りました。彼女は、「SEA TO SUMMIT千曲川・高社山大会」も全行程歩きました。毎日、大好物の納豆を食べ、日本の民謡「ふるさと」を歌うなど、日本文化にどっぷり浸かった日々でした。
子どもたちの体力以上に重要なのは、直感力や流れに身を任せることができる力です。土砂降りの雨の中、長野県斑尾に到着するまでの1,000mのヒルクライムを歌いながら自転車で登り、道中で拾った棒切れを使ってゲームを考案する創造力。子どもたちは自分自身を信じ、全ての生命を信じています。ありがとう、ナイラ。ありがとう、フィビー。
第11回(2022年)受賞者
1982年、秋田県生まれ。高校時代から登山に魅せられ、国内外の山に登る。2006年に世界第2位の高峰、K2(8,611m/パキスタン)に日本人女性として初めて登頂。植村直己冒険賞を受賞する。その後、草原や沙漠など自然と共に生きる人間の暮らしに惹かれ、フォトグラファーを志す。2012年からシリア内戦や難民をテーマに撮影。シリア難民の現状を伝える活動を続ける。著書に『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)など。第8回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞。
小松由佳さんからのコメント
この度はモンベル・チャレンジ・アワード受賞の報を受け、大変光栄に思います。2006年の夏、世界第2の高峰K2の頂から見たのは、丸い地球と黒い空でした。危険なビバークを経てBCに戻ったとき、人間がただここに存在し、生きていることの特別さを実感しました。以来、風土に根ざした人間の営みに惹かれ、人間と土をテーマに撮影を行っています。2012年からは、シリア内戦によって故郷を追われた難民の取材を行い、彼らの状況が少しでも改善されるきっかけになるよう活動しています。私にとっての冒険は、自分にとっての“未知”に、信念と謙虚さをもって出会い続けていくことです。これからも、写真活動を通して人と人とを繋げ、新しい波が生まれるきっかけ作りができたらと思います。どうもありがとうございました。
第10回(2020年)受賞者
1987年、山形県生まれ。高校時代に冒険家に憧れ、卒業後就職をせずに冒険の道へ。18歳の時に徒歩での日本縦断(2006年5月~9月、109日間、2,715km)を皮切りに、これまでに気温がマイナス50℃にもなる極寒の厳冬期アラスカや、プラス50℃を超える真夏の砂漠デスバレーの人力踏破などに挑み、国内外を徒歩で7,000km、自転車で38,000kmを踏破。
近年は極地を舞台に冒険を続け、2016年にはそりを引いて北極海氷上を450km単独徒歩踏破。2017年より厳冬期極北カナダを舞台に、数年に及ぶ壮大な冒険計画「厳冬期カナダ人力縦断」に取り組んでいる。
関口裕樹さんからのコメント
18歳から今日まで、ひたすら自分自身の為に続けてきた冒険、そして僕の冒険家という生き方を評価していただき、本アワードを受賞できることを嬉しく思います。本物の自然の中、必死に歩き続けて痛感するのは自分の弱さであり、今まで数え切れないほどの失敗を繰り返してきました。その過程の中で気づけたのは、失敗できるのはチャレンジした証であるということ。これからもモンベル・チャレンジ・アワード受賞者として恥じないよう、失敗を恐れずに冒険を続けていきます。
第9回(2019年)受賞者
グザヴィエ・パッシュ 1980年生まれ、建築技師・写真家
セリーヌ・パッシュ 1982年生まれ、人類学者・登山インストラクター
2010年から自転車で世界中をめぐる旅を始めたスイス人のグザヴィエ&セリーヌ夫妻。旅の途中に生まれたナイラちゃん、フィビーちゃんの2人の娘を連れ、2020年にかけて世界中をめぐる自転車の旅を続けています。
2010年から2015年までは"Swiss Alps to Southern Alps"と題し、生まれ故郷スイスからニュージーランドまでを自転車で走破。その途中、2013年にマレーシアで娘のナイラちゃんが誕生。それ以降は子育てをしながら旅を続けてきました。2015年にニュージーランド到着後、いったんスイスに帰国し、2016年の夏から、現在の"The Great Northern Horizon"を北海道からスタート。
2017年8月には、2人目の娘、フィビーちゃんがマレーシアで誕生。彼女たちは、両親とともに旅をしながら、訪れた各国の文化を肌で感じ、たくましく成長しています。パッシュ ファミリーは、世界中で自らの経験について講演活動をしながら、2020年まで家族で旅を続ける予定です。
パッシュ ファミリーからのコメント
「モンベル・チャレンジ・アワード」という素晴らしい賞を頂き、本当にありがとうございます。3年前に初めて日本でモンベルと出会った時、我々は3人でした。今はフィビーが加わり、4人でまた日本を再び訪れる機会ができてうれしいです。
第8回(2016年)受賞者
人類学者や考古学者、海洋探検家などから成るチームが、「日本人のルーツ」という大きな謎の解明に挑む一大プロジェクト。約20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)が日本に渡ったのは、約3万8千年前。チームを束ねる国立科学博物館の海部陽介氏によると、北(サハリン~北海道)、西(朝鮮半島~九州)、南(台湾~沖縄)の三つのルートで日本にたどりついたとされる。これら三つのルートのうち、本プロジェクトでは「南」ルートに着目。全長1,200kmにおよぶ琉球列島には全域で3万年前ごろまでにさかのぼる遺跡が確認されている。琉球列島全域で子孫を増やして島に定着していたことから、単なる偶然の漂流でたどり着いたのではなく、祖先たちはあえて航海に挑戦していたと考えられる。台湾から黒潮を横断する100km以上の航海は本当に可能か? 復元した古代の草舟で実験航海を行い、祖先たちが挑んだ困難を自ら体験して検証する。第一の段階として、2016年7月に与那国島から西表島への航海を行う予定。
プロジェクト代表 海部陽介さんからのコメント
陸上動物である人類にとって、海の向こうの島はそもそも生活の場ではありませんでした。ところが5万年前以降に原初的な航海術を発明した人々が大洋へと乗り出しはじめ、地球上で人間が暮らせる場所が少しずつ広がっていったのです。日本列島もその例外ではなく、ここには3万年以上前から、目標が見えないほどの長距離航海を成功させた人たちがいたことがわかってきました。そうした祖先たちの偉大なチャレンジの謎を解き明かすための計画が、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」です。その価値をご評価頂き、栄えある本アワードを受賞する喜びを、プロジェクトメンバーならびに大勢の支援者の皆さまと分かち合いたいと思います。
第8回 モンベル・チャレンジ・アワード授賞式の様子(写真上から4番目)
左から、モンベル代表・辰野勇、海部陽介さん、関野吉晴さん、内田正洋さん(2016年5月26日 於国立科学博物館講堂)
第7回(2012年)受賞者
宮城県登米市に建つ「手のひらに太陽の家」は、東日本大震災や福島の原発事故により被災した子どもや家族を支援するための復興共生住宅です。同県内で活動するNPO法人「日本の森バイオマスネットワーク」が震災後にプロジェクトを立ち上げ、地元材と自然エネルギーを活用した循環型の住宅として、復興のモデルとなることを目指しています。2012年7月に完成し、福島県の親子の保養滞在を中心に受け入れを行っています。
同プロジェクトのキーワードは「共生」。長屋のように並ぶ8つの個室と共有のリビング・食堂を設け、プライバシーを守りながらも共同生活の中で安心して暮らせる環境を提供しています。また、地元の木材を使用し、地元の大工や職人の手によって伝統工法を用いながら建設することで、プレハブ仮設住宅とは違い長期に渡って利用が可能な上、地域産業の振興にも寄与するよう考慮されています。間伐材や端材から作られた木質ペレット燃料を利用した暖房システムや、太陽光発電を積極的に採用し、自然エネルギーを利用した持続可能な住宅を目指しています。
プロジェクト代表 佐々木豊志さんからのコメント
震災が発生し、「なんとかしなければ」と我々を突き動かした原動力は、アウトドアでのさまざまな体験だと思います。未知のことや結果が保証されていないことでも、躊躇なく行動を起こすことができる体質を培ってきたのでしょう。「日本の森バイオマスネットワーク」は、自然学校と木材屋が中心となって発足したNPO法人で、震災直後から全国のメンバーと連携して被災地支援を行いました。その延長線上に「手のひらに太陽の家」があります。モンベルをはじめ、多くの方々の思いが結集したプロジェクトです。今回の受賞は、支援していただいた多くの皆様の思いに対して贈られたものと感謝しております。
第6回(2011年)受賞者
漁師。NPO法人「森は海の恋人」理事長。農林水産省・政策評価第三者委員会委員。
高度経済成長に伴う生活様式の変化で海が汚染され始めた時期、海の環境を守るためにいち早く行動を開始。1989年「カキの森を慕う会」を立ち上げ、植林活動や、子どもたちを対象とした環境教育を実施しています。また、プランクトンと鉄分との関係、その鉄分を生み出す川と森の関係性を科学的に浮かび上がらせるなど、森と海の連環をわかりやすく発信、森と海の連環を訴えるイベントなども提唱しています。2011年、国連が定めた「フォレストヒーローズ」(※)の一人に選出されました。著書に「森は海の恋人」(文春文庫)、「リアスの海辺から」(文春文庫)、「牡蠣礼賛」(文春新書)、「鉄は魔法つかい」(小学館)など。
※2011国際森林年に際し、世界中から森を守るため地道で独創的な活動に取り組んでいる功労者を顕彰する事業。
畠山さんからのコメント
この度は栄えあるモンベル・チャレンジ・アワードを受賞することになりました。長年活動を共にしてきた仲間と喜びを分かち合いたいと思います。2011年は東日本大震災による大津波により活動拠点を失ってしまいました。二十数年間の活動により少しずつ自然が蘇りつつあった矢先であっただけに、大きなショックでした。しかし自然の復元力には目を見張るものがあり、多くの生物が戻ってきました。この度の受賞を機会に、再び子どもたちへの環境教育を復活させてゆきたいと思っております。今後とも、活動を見守ってくださいますようお願い申し上げます。
第5回(2010年)受賞者
昆虫の生態を明らかにするために、ひとり洞窟に潜り込んだり、40メートルもの高さの木に登ったり…。西田賢司さんは、中米・コスタリカを拠点に活動する、探検昆虫学者(Exploratory Entomologist)。これまでに多くの新種や新生態を発見し、国際的に高い評価を受けてきました。
1972年、大阪府生まれ。幼い頃から自然が大好きで、15歳のときに単身渡米。アメリカの大学で生物学を専攻した後、国立コスタリカ大学で昆虫学を専門に学び、修士号を取得。現在もコスタリカを拠点に、世界各地で調査や採集を行っています。
腰に大きなゴミ袋をぶら下げながら森を歩き、その中へ小袋に入れた昆虫や植物をどんどん溜めていく姿から、昆虫学者の間では「バッグマン」(袋男)と呼ばれているとか。昆虫を見つけ、捕らえるのに必要な優れた目と知識、採集の腕は、世界各地の専門家から高い評価を受けており、調査の同行を頼まれることも多いといいます。
2000年頃からは、ハワイでも活動。人の手で制御しづらい侵入植物(外来植物)を昆虫などの小さな生き物に頼って自然に近いかたちで制御する「生物防除」のプロジェクトに参加しています。在来種の絶滅を食い止め、生態系のバランスを取り戻すために「侵入植物がもともと自生している地域に出向き、防除役となる未知なる昆虫を発見し、未知なる生態を解明するのが"探検昆虫学者"の役割」と西田さん。深い知識と経験、そして探検家さながらの行動力で、地球的な課題に取り組んでいます。
生物や生態系という謎に満ちた世界と対峙する西田さんの世界観は、思慮深く示唆に富むものです。「できるだけ多くの時間を人間が創らなかったものに囲まれ生活していくことは大切なこと。その環境とは、私たち人間の脳で簡単に理解できる世界ではなく、私たちはそれにより考えさせられる他はない。この世を創ったのは私たちではないことは知っている、しかし私たちはその一部である。敬意と愛を持ちつつ、その一部でありたい」。
第4回(2009年)受賞者
犬ぞりによる北極圏での環境調査プロジェクト「アバンナット」に取り組む極地冒険家。氷点下40度の氷の世界を犬ぞりで進みながら、地球環境の「いま」と北極の美しい自然、そして現代のイヌイットの暮らしを伝えています。
1967年、兵庫県生まれ。少年時代から故植村直己氏にあこがれ、1988年、アマゾン河をイカダで下る単独行に成功。その後、1989年からは北極圏での徒歩や犬ぞりによる遠征を繰り返してきました。そんななか、極地研究者と知り合う機会があり、1995年、北極圏氷河学術調査隊(日本・ノルウェー・ロシア合同)に参加。以来、冒険と観測の両面から極地と関わってきました。
北極圏は、地球が抱える温暖化や汚染の影響が顕著に表れる場所。大気や雪氷を分析して得られるデータは、気候変動の実態やメカニズムを解明する鍵になるといいます。地球規模の問題解決に、冒険家の自分だからできることがある――。研究者たちとの出会いは、その後の冒険に重要な方向性を与えました。
1997年、グリーンランド北部への遠征を機に、イヌイットに伝わる犬ぞりを移動手段にすることを決意。イヌイットの人々から北極での生活技術を学びました。犬ぞりを使って雪や氷のサンプルを集め、気候変動の実態解明につなげる。「犬ぞりと観測調査」という自分なりの活動スタイルを見出し始めたのは、この頃からでした。
1998年と2000年には、犬ぞりを使ってグリーンランド北部内陸域を観測調査。2004~06年には第46次日本南極地域観測隊・越冬隊員として南極・昭和基地に赴任。その後、極地での活動の集大成として着手したのが、2006年から開始した北極圏環境調査プロジェクト「アバンナット」です。「アバンナット」とは、グリーンランドの人々の言葉で「北極に吹く強い北風」のこと。2015年までの10年計画で、北極圏の広い範囲を犬ぞりで移動。積雪中の化学成分や微生物の調査、海氷や気象の観測を行っています。
計画は、極地観測を民間の立場で行うという新たな試みでもあります。記録をうち立てるような冒険とは一線を画する地道な取り組みですが、目指すのは、冒険心と社会への貢献とを両立させること。「自分に何ができるのか考えたとき、『北極』しか僕にはなかった」「極地の現状を発信していくことで、次の世代に大きなメッセージを送れたら」という思いが、山崎さんの活動を支えています。
第3回(2008年)受賞者
中村哲さんは1946年に福岡市に生まれました。
九州大学医学部を卒業後、国内の病院に勤務。
1978年、31歳のときに、パキスタンとアフガニスタンをまたぐヒンズークシュ山脈の最高峰・ティリチ・ミールを目指す登山隊に医師として参加しました。ヒンズークシュ山脈に生息する珍しい蝶への興味もあり登山隊に加わった中村さんですが、現地で目にしたのは山岳地帯に生きる人々の厳しい現実でした。
医師がいるという噂を聞きつけ、救いを求めてやってきた人々に対し、薬があれば治せるのに薬すら与えられずはがゆい思いをしたといいます。6年後にパキスタンへの医師派遣の話が舞い込んだとき、救えなかった人々のことを思い出し、妻と幼い子どもを連れて、赴任を決意しました。
その後、パキスタン国内でのアフガン難民への医療活動を開始し、さらにはアフガニスタン国内へも活動の範囲を広げました。1998年には、中村さんを支援する「ペシャワール会」に寄せられた寄付を元に、ペシャワール会医療サービス病院を設立しました。「人が生まれて死んでいく。その尊さは世界中変わらない。日本人でもアメリカ人でもアフガン人でも同じ。それを大切にしたい」そんな中村さんの周りには、多くの支援者、寄付が集まり、たくさんの命が救われてきました。
長年にわたり現地で医療活動を続ける中で、「医療だけでは人の命を助けられない」と感じはじめた中村さん。それを決定づけたのは2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつでした。幼い子どもたちが次々と死んでいく中、「飢えや乾きは薬では治せない。100の診療所よりも、1本の用水路」という信念で、水源確保事業にも乗り出します。独学で土木技術を学び、2000年には井戸の掘削を、2003年には全長30キロに及ぶ農業用水路建設に取り掛かりました。中村さんの活動により、砂漠化した大地に少しずつ緑が戻ってきています。
内戦・干ばつ・空爆と非常に厳しい状況下でも、臆することなく自分の信じる道を歩き続ける中村さん。たった一人の医師の志が、多くの人の命を救い、人生を変え、国家をも超えた大きな流れを作っています。「誰もやりたがらないからこそ、自分がやる」そんな中村さんの活動は、自らの限界に挑み、未開の地をゆく“冒険”そのものです。
第2回(2006年)受賞者
1965年東京生まれの大阪育ち。
1989年にオーストラリアで現在の夫であるスティーブさんと出会い、世界一周自転車二人旅を始めました。アジア、北中南米、アフリカ、ヨーロッパ、ユーラシアの77カ国を11年で約11万km走行し、77カ国目のパキスタンで癌の宣告を受けます。
2001年1月緊急帰国。検査の結果、子宮癌で5年生存率20%、余命半年と診断されました。入院中にスティーブさんと12年目の入籍。抗癌剤治療により頭髪が抜け落ち、体重は9kg減りました。そして、治療方法について大きな決断を迫られることになります。生存率は高いが歩行困難になるかもしれない広範囲摘出手術か、再発のリスクは高いが再び自転車に乗れる可能性のある手術かの選択を迫られ、後者を選択。術後も放射線治療、抗癌剤治療が続き、激しい副作用と合併症で身体はみるみる衰弱しました。ついに体力と病院治療の限界を迎え、入院から約半年で病院を去ることに。これまで「どうしたら1日でも長く旅ができるか」と考えていたのが、「どうしたら1日でも長く生きられるか」と考えるようになりました。
退院後は『身土不二※』に習い、「土と共に生きる生活」を奈良・柳生の里の古民家で始め、自らの手で有機農法野菜を育て、薬草や野草も食卓に取り入れました。療養中も体調と相談しつつ依頼された講演をこなし、「勇気を持って一歩目を踏み出そう!」、「夢は決してあきらめちゃいけない」とメッセージを送り続けました。
そして2004年12月、冒険への再出発。旅を中断した場所に同じ時期に戻り、世界一周自転車の旅を再開しました。中断前に予定していた残り1万kmを3ヶ月ずつの4回にわけ、2007年のゴールを目指します。復活旅第1弾パキスタン~インド('04~'05)、第2弾インド~ネパール('05~'06)を無事に終え、現在は日本で次の旅へ向けての充電中。2006年4月26日には術後から無事5年が経過。癌からの生還を果たしました。
しんどふに、仏教の教典にある用語。明治時代に仏教用語から自分の足で歩ける3里から4里範囲の地元食材を食べることが人間の健康に良い影響を及ぼすという思想を表現した用語。転じて、人(身)とその人が生きる郷土(土)は密接な関係にあるものであり、別々に存在するものではない(不二)という意味で使われている。
第1回(2005年)受賞者
1934年鹿児島県生まれ。一般人に海外旅行が自由化された1964年に日本を飛び出し、イタリアはローマ、ミラノを巡った末、スイスのグリンデルワルトに定住。1994年、手作りボートで大西洋約2万kmを単独で横断し、オペル冒険大賞を受賞。
10年後の2004年、尻尾を前に進む魚の形をしたボート「ホワイ・ノット」号で新たな大航海にチャレンジするも予期せぬ事態に見舞われ断念。このチャレンジに対し、第1回モンベル・チャレンジ・アワードが贈られました。その後も大航海への思いは冷めず、2005年現在は3号艇「フレーネリ」号を建造中。地中海~スエズ運河~インド洋~日本~アリューシャン~カナダの北~大西洋~地中海のルートで世界一周を目指します。
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