モンベルでは2005年に「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設しました。
モンベルでは、自然を対象に、あるいは自然を舞台として、人々に希望や勇気を与え、社会に対して前向きなメッセージを伝える活動を応援する目的で、2005年に「モンベル・チャレンジ・アワード」を創設しました。
独創的なチャレンジに対し、計画段階からのサポートを行います。失敗を恐れずに挑戦し続ける姿勢を応援します。
第4回受賞者、犬ぞり冒険家・山崎哲秀さんの講演会を、東京と大阪で開催します!(10/4東京・10/10大阪)
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第4回受賞者
犬ぞりによる北極圏での環境調査プロジェクト「アバンナット」に取り組む極地冒険家。氷点下40度の氷の世界を犬ぞりで進みながら、地球環境の「いま」と北極の美しい自然、そして現代のイヌイットの暮らしを伝えています。
1967年、兵庫県生まれ。少年時代から故植村直己氏にあこがれ、1988年、アマゾン河をイカダで下る単独行に成功。その後、1989年からは北極圏での徒歩や犬ぞりによる遠征を繰り返してきました。そんななか、極地研究者と知り合う機会があり、1995年、北極圏氷河学術調査隊(日本・ノルウェー・ロシア合同)に参加。以来、冒険と観測の両面から極地と関わってきました。
北極圏は、地球が抱える温暖化や汚染の影響が顕著に表れる場所。大気や雪氷を分析して得られるデータは、気候変動の実態やメカニズムを解明する鍵になるといいます。地球規模の問題解決に、冒険家の自分だからできることがある――。研究者たちとの出会いは、その後の冒険に重要な方向性を与えました。
1997年、グリーンランド北部への遠征を機に、イヌイットに伝わる犬ぞりを移動手段にすることを決意。イヌイットの人々から北極での生活技術を学びました。犬ぞりを使って雪や氷のサンプルを集め、気候変動の実態解明につなげる。「犬ぞりと観測調査」という自分なりの活動スタイルを見出し始めたのは、この頃からでした。
1998年と2000年には、犬ぞりを使ってグリーンランド北部内陸域を観測調査。2004~06年には第46次日本南極地域観測隊・越冬隊員として南極・昭和基地に赴任。その後、極地での活動の集大成として着手したのが、2006年から開始した北極圏環境調査プロジェクト「アバンナット」です。「アバンナット」とは、グリーンランドの人々の言葉で「北極に吹く強い北風」のこと。2015年までの10年計画で、北極圏の広い範囲を犬ぞりで移動。積雪中の化学成分や微生物の調査、海氷や気象の観測を行っています。
計画は、極地観測を民間の立場で行うという新たな試みでもあります。記録をうち立てるような冒険とは一線を画する地道な取り組みですが、目指すのは、冒険心と社会への貢献とを両立させること。「自分に何ができるのか考えたとき、『北極』しか僕にはなかった」「極地の現状を発信していくことで、次の世代に大きなメッセージを送れたら」という思いが、山崎さんの活動を支えています。
第3回受賞者
中村哲さんは1946年に福岡市に生まれました。
九州大学医学部を卒業後、国内の病院に勤務。
1978年、31歳のときに、パキスタンとアフガニスタンをまたぐヒンズークシュ山脈の最高峰・ティリチ・ミールを目指す登山隊に医師として参加しました。ヒンズークシュ山脈に生息する珍しい蝶への興味もあり登山隊に加わった中村さんですが、現地で目にしたのは山岳地帯に生きる人々の厳しい現実でした。
医師がいるという噂を聞きつけ、救いを求めてやってきた人々に対し、薬があれば治せるのに薬すら与えられずはがゆい思いをしたといいます。6年後にパキスタンへの医師派遣の話が舞い込んだとき、救えなかった人々のことを思い出し、妻と幼い子どもを連れて、赴任を決意しました。
その後、パキスタン国内でのアフガン難民への医療活動を開始し、さらにはアフガニスタン国内へも活動の範囲を広げました。1998年には、中村さんを支援する「ペシャワール会」に寄せられた寄付を元に、ペシャワール会医療サービス病院を設立しました。「人が生まれて死んでいく。その尊さは世界中変わらない。日本人でもアメリカ人でもアフガン人でも同じ。それを大切にしたい」そんな中村さんの周りには、多くの支援者、寄付が集まり、たくさんの命が救われてきました。
長年にわたり現地で医療活動を続ける中で、「医療だけでは人の命を助けられない」と感じはじめた中村さん。それを決定づけたのは2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつでした。幼い子どもたちが次々と死んでいく中、「飢えや乾きは薬では治せない。100の診療所よりも、1本の用水路」という信念で、水源確保事業にも乗り出します。独学で土木技術を学び、2000年には井戸の掘削を、2003年には全長30キロに及ぶ農業用水路建設に取り掛かりました。中村さんの活動により、砂漠化した大地に少しずつ緑が戻ってきています。
内戦・干ばつ・空爆と非常に厳しい状況下でも、臆することなく自分の信じる道を歩き続ける中村さん。たった一人の医師の志が、多くの人の命を救い、人生を変え、国家をも超えた大きな流れを作っています。
「誰もやりたがらないからこそ、自分がやる」
そんな中村さんの活動は、自らの限界に挑み、未開の地をゆく“冒険”そのものです。
第2回受賞者
1965年東京生まれの大阪育ち。
1987年にオーストラリアで現在の夫であるスティーブさんと出会い、世界一周自転車二人旅を始めました。アジア、北中南米、アフリカ、ヨーロッパ、ユーラシアの77カ国を11年で約11万km走行し、77カ国目のパキスタンで癌の宣告を受けます。
2001年1月緊急帰国。検査の結果、子宮癌で5年生存率20%、余命半年と診断されました。入院中にスティーブさんと12年目の入籍。抗癌剤治療により頭髪が抜け落ち、体重は9kg減りました。そして、治療方法について大きな決断を迫られることになります。生存率は高いが歩行困難になるかもしれない広範囲摘出手術か、再発のリスクは高いが再び自転車に乗れる可能性のある手術かの選択を迫られ、後者を選択。術後も放射線治療、抗癌剤治療が続き、激しい副作用と合併症で身体はみるみる衰弱しました。ついに体力と病院治療の限界を迎え、入院から約半年で病院を去ることに。これまで「どうしたら1日でも長く旅ができるか」と考えていたのが、「どうしたら1日でも長く生きられるか」と考えるようになりました。
退院後は『身土不二※』に習い、「土と共に生きる生活」を奈良・柳生の里の古民家で始め、自らの手で有機農法野菜を育て、薬草や野草も食卓に取り入れました。療養中も体調と相談しつつ依頼された講演をこなし、「勇気を持って一歩目を踏み出そう!」、「夢は決してあきらめちゃいけない」とメッセージを送り続けました。
そして2004年12月、冒険への再出発。旅を中断した場所に同じ時期に戻り、世界一周自転車の旅を再開しました。中断前に予定していた残り1万kmを3ヶ月ずつの4回にわけ、2007年のゴールを目指します。復活旅第1弾パキスタン〜インド('04〜'05)、第2弾インド〜ネパール('05〜'06)を無事に終え、現在は日本で次の旅へ向けての充電中。2006年4月26日には術後から無事5年が経過。癌からの生還を果たしました。
しんどふに、仏教の教典にある用語。明治時代に仏教用語から自分の足で歩ける3里から4里範囲の地元食材を食べることが人間の健康に良い影響を及ぼすという思想を表現した用語。転じて、人(身)とその人が生きる郷土(土)は密接な関係にあるものであり、別々に存在するものではない(不二)という意味で使われている。
第1回受賞者
1934年鹿児島県生まれ。一般人に海外旅行が自由化された1964年に日本を飛び出し、イタリアはローマ、ミラノを巡った末、スイスのグリンデルワルトに定住。1994年、手作りボートで大西洋約2万kmを単独で横断し、オペル冒険大賞を受賞。
10年後の2004年、尻尾を前に進む魚の形をしたボート「ホワイ・ノット」号で新たな大航海にチャレンジするも予期せぬ事態に見舞われ断念。このチャレンジに対し、第1回モンベル・チャレンジ・アワードが贈られました。その後も大航海への思いは冷めず、2005年現在は3号艇「フレーネリ」号を建造中。地中海〜スエズ運河〜インド洋〜日本〜アリューシャン〜カナダの北〜大西洋〜地中海のルートで世界一周を目指します。
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